手を伸ばしたらすぐにでも届いてしまうのではないか、というほどの低さに黄みがかったホワイト・グレーの雲が何処までも続く。
 決して晴れる事のない空を、俺は飽きる事無く見上げ続けていた。
 あの雲を取り払ったら、その向こうに『青空』が在るのだろうか?
  『大戦』の穢れが未だ残り続けるこの国の空の色は、とても哀しい気持ちにさせる。
 試しに手を伸ばして、ゆっくりと空を掴んでみた。
 しかし手応えはあるはずもなく、やはり遠くにあるのだと実感させられて、無意識に苦笑してしまう。

「あれぇ? カイン、また見てたのー?」  

 ふわふわとした独特の少女の声が俺の名を呼んだ。そちらの方に顔を向けると、見慣れた顔が下から俺を見上げている。
 目が合うと、彼女は「にぱっ」と形容してもいいほどの笑顔を見せた。
 紅真珠のような不思議な色の長い髪に、ぶかぶかの帽子を被ってい、作業用のつなぎを着ている小柄な少女だ。
 上半身部分は脱いで袖を腰で縛ってある。切り揃えられた前髪の下の珊瑚色の大きな瞳は、無邪気な光を宿していた。
 十歳を幾許か過ぎたくらいの、その少女の名を呼んでみる。

「シェリー」

 はーい、と細い腕を挙げて返事をした彼女は、その身体には不釣り合いな武器を肩から下げていた。
 260mm口径、大抵の家屋ならば簡単に吹き飛ばせるほどの威力を持つ大砲銃(バズーカ)。
 黒い鋼の銃身が、鈍く光る。




―――――――
*sherry*
―――――――




 現在から40年ほど前、『機械都市国家(ポリス)』と呼ばれるこの島国を中心に、大量の機械兵器を使用した戦争が起こった。
 全世界を巻き込んだ『機械大戦(通称"大戦")』である。
 独立した島国故に、独自の機械技術を発展させる事に成功したこの国のかつての王は、世界にケンカを売るという正気の沙汰とは思えない暴挙を挙げたのだ。
 およそ3年ほど続いたこの大戦争の中、大量の機械が破壊され、大勢の人間が殺された。それでもこの戦争が終わる気配は、まだなかった。
 しかし、大戦は一体のアンドロイドによって終わりを迎える事になる。
 当時若くして王直属機械技術師団の長を務めた一人の技術者がいた。
 その人の名前は『シアノス=コアントロー』。
 彼は大戦を早く終わらせるために、究極のアンドロイドを造り出したのだ。
 ――それが、俺だった。
 大量殺戮を繰り返し、機械を破壊し、他国は畏れをなして逃げ、この国を一気に大勝利へと導いた最終兵器『血塗れの手(ブラッディー・ハンド)』…。
 それは当時の王が皮肉を込めて付けた、その時の俺の名前だ。
 そして、その機械達の残骸から排出されたガスや、腐敗した人肉などによって汚染された空気が空に留まり続けた。
 それが、今でも流れる事無く留まり続ける曇り空の正体なのだという。
 終戦直後、何らかの原因で破損し、瓦礫の海の中で行方不明になってしまった俺は40年後――つまり現在、二人の幼い技術者によって発掘される事になる。
 一人は『フォルトゥナート=コアントロー』、通称フォルテ。俺を造り出したマスター・シアノスの孫である、十代半ばの少年だ。
 破損の激しかった俺を完璧に修復してくれたのも殆ど彼で、マスターの血を濃く受け継いでいる事が判る。
 もう一人が、今俺の隣でにこにこと笑っている少女、『シェリー=ドルチェス』。マスター・シアノスの親友、ドルチェス博士の孫にあたる。
 彼らは、俺に新しい名前をくれた。――兵器としての名前ではなく、『優しき心(カインド・ハート)』という『家族』としての名前を。
 そして俺は今、此処に居る。

***



「この国の空がああなったのが俺の所為ならば、どうにかしたいとずっと思っていたんだ」

 ――何度手を伸ばしても届きはしない。判っていても、何度も繰り返す。
 一見馬鹿らしい行為だ。しかし、やらずにはいられなかった。
 『大戦』で俺はこの国に大勝利を与えた代償として、青空を奪ってしまったのだから。
 それでも俺は諦めきれていない。何か、出来るものだとどこかで信じていた。
 俺に今、出来る事があるのだろうか――……。
 ふと、再びシェリーの大砲銃に目を向けた。
 フォルテ曰く、「シェリーは重火器マニアで、お気に入りの武器をいつも持ち歩いている」らしいが、重くはないのだろうか。
 彼女には狙撃銃どころか拳銃でさえ重そうに見えるのに。
 いくら外が物騒だからとは言え、大体何故そんな武器を持ち歩いているのかが疑問だった。
 だから訊いてみる。すると、彼女は

「重いからだよ」

と答えた。

「武器は重いでしょ? これはね、鉄とかクロームとかで出来てるからだけじゃないの」

 シェリーは大きく丸い瞳を少し伏せ、細い肩からベルトで下げてある、大砲銃に触れる。

「武器は、命を奪うコトのできるモノだから。それはとっても重いモノだから。だからね、この重さは命の重さなの」

 本当はもっと重いのかも知れないけど、と顔を上げたシェリーは小さく笑った。
 その瞳にはいつもの楽しげな煌めきはなく、どこか哀しみを帯びた光を宿している。
 この子らしくない――いや、これが本当の彼女なのか。シェリーは続ける。

「その重さを、武器を持つヒトは忘れちゃいけない。武器を持つのはヒトで、使うかどうかを決めるのもヒトだから。傷つけたり、奪ったりするのはヒトの意思で、武器はその切っ掛けを生むだけだから。それを忘れないためにね、わたしはいつもこれを持ってくの」

 そう言うとシェリーは真直ぐに俺の瞳を見る。彼女の瞳は、一点の曇りもない深い色をしていた。
 覚悟を決めた武人。戦場を知り、愛する者を失ってきた者だけが持つ眼差しだった。

***



 奪う事の出来るモノの重さ――。
 知っている。
 俺は最初、命令された事をただこなすための忠実な破壊兵器として、色々なモノを奪ってきた。
 けれど、『心のある機械』として生み出された俺は、マスターの辛そうな表情を見る度に、機械や人間の断末魔を聞く度に疑念を募らせ重圧を感じていくようになっていったのだ。
 ――とても、苦しかったのだ。
 俺は、自分が、自分自身の存在がとてつもなく重く感じるようになってしまった。
 奪う事の出来るモノの重さを背負ってしまった俺は、きっとそれに耐えきれなくなってしまったのだろう。

(――ああ、だから俺は、壊れてしまったのか)

 どんな攻撃にも耐え、殆ど休む事無く動き続け、最強と謳われた俺だというのに、心が在る故にこんなにも呆気無く壊れてしまったのだ。
 マスターは何故俺に心を持たせたのか。何故何も感じない無情な機械にしてくれなかったのか。それが判らない。
 責めるつもりは少しも無かった。けれど、苦しい。
 痛覚は、破損の危険度を知らせるための信号として存在していた。しかし、それは身体面に限っての事のはずだ。
 今、俺は心が痛い。確かに其処に存在しているモノのはずではないのに、人間の心臓を模して造られた循環液用のポンプが、ギシリと軋むような痛みを感じる。

「カイン、どこか具合悪いのー?」

 シェリーが心配そうに俺を見上げていた。そして手を伸ばし、俺の胸に手を置く。

「……痛いの?」

 丁度ポンプの真上に当る位置だ。小さな手の平から伝わるヒトの温度がじわりと広がる。それからゆっくりと言い聞かせるようにシェリーは言った。

「大丈夫だよ、カイン。ここが痛いのは、生きてるってコトだから」

 だから大丈夫だ、と。
いつの間にか、いつもの表情に戻っている。ただ無邪気な笑顔に、俺は少しほっとした気がした。

「うん……もう、大丈夫だ。……大丈夫」

 機械の俺を、『生きている』とシェリーは言った。痛みを感じるから、痛みを知っているから「大丈夫だ」と言ってくれた。
 何の変哲もない、けれど奇跡のような言葉を、心の中で何度も繰り返す。
 ゆっくりと、氷を溶かすように。

***



 フォルテ、シェリー。
 彼らはそのあどけない表情の下に、一体どれほどの影を覆い隠しているのか。
 二人と出会ってから僅かな時間しか経っていない俺には、聞いた範囲の事でしか知り得ない。

(適わないな)

 本気でそう思う。彼らは――強い。多くのモノを失ってきた以上に、強かだ。
 彼らには、夢がある。

「本当の空の色を取り戻すんだ」
と少年は言った。

「みんな忘れちゃってるの。本当の空の色ってこんな色じゃなかったってコト」
と少女は言った。

 遠い遠い水平線の彼方にごく僅かに見えるあの蒼を、この国の上にも広げるのだ。と。
 そしてそれは可能なのだと、幼い技術者達は言ったのだ。

(今、俺に出来るコト――)

 決まっている。いや、もう昔から決まっていたのかも知れない。
 マスターが俺に心を与えた、その瞬間から。
 『家族』として。『仲間』として。『優しき心』として――。夢を同じくして、一緒に青空を取り戻したいから。


 俺は、二人を守りたい。


 再び遠い空を見上げて、俺は誓った。



 fin




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