目の前に広がる、鮮烈な赤。
 それはまるでスプリンクラーのように液体をまき散らしている。じっとりと粘り気のある異臭が、鼻をつく。
 私は、それの傍に居た少年に向かって、叫んでいた。

「ひ……人殺し――――!!」




――――――――――
 +++Knife+++
――――――――――




「証拠がないんですよ」

と、私の前の机越しに向かい合う形で座っている刑事は言った。
 彼は少し面倒臭そうにファイルを捲っている。二十代半ば位の若い刑事だった。

「何がですか! 私、見たんですよ!!」

 あの時あそこにあの少年が居た。それだけではだめなの?

「――といってもですねぇ……」

 ファイルから顔を上げて、やっぱり面倒臭そうに私を見る。キリッとした整った顔立ちだから、余計に腹立たしかった。

「貴女が見たのは現場に居合わせた少年と、既に息がないと思われる貴女の連れだけなんでしょう? しかもショックでその前後の事を覚えていない」

 そう。あの路地裏で変わり果てた姿になっていたのは私の彼だ。

 優しくて、誠実で、これ以上ないくらいなのに……。
 何故、彼は殺されなくちゃいけなかったんだろう。この刑事が言う通り、私は確かに彼の遺体を発見するに至るまでの記憶が曖昧なのだ。
 だからあの少年が彼を殺す現場を見たわけじゃない。証拠が不十分なのも頷ける。

「……でも、間違いなくあの現場に居たあの子が犯人よ! 何であんな裏路地に居たんですか。怪しいのには変わりないですよ!」

 それでも私は強気に出た。犯人を何としてでも捕まえたい。この刑事に行動を起こさせたい。
 すると刑事はスッと目を細めて私を見据えた。

「――今日はこの辺にしておきましょう。お話の続きはまた明日にお願いします」

+++


 取り合えず、息の詰まりそうな空間から解き放たれた。まだ納得はいかないけれど。
 よくドラマとかでは、刑事はタバコを吸ってて部屋もタバコ臭いイメージがあったのに、私が取り調べを受けた部屋はそれとは相反して清潔できれいな感じだったから、意外だった。
 良く考えたらそれは古いドラマだし、しかも犯人を尋問するシーンだし、私はただの目撃者だから、ああいう部屋だったのかも知れない。
 そういえば、私と一緒に連れてこられた少年はどうしているだろうか。容疑者としてちゃんと調べられているんだろうか。
 自動ドアをくぐり、外に出る。時計を見やると午後十時を回っていた。
 十二月にもなると夜の寒さは普通じゃなくなる。唇の隙間から白く濁る息が流れた。肺が凍てつきそうだ。
 ……寒い。私は両腕を抱えるようにさすった。早く家に帰ろう。

「今晩和」

 不意に、無邪気な少年を思わせる声が、私に呼び掛けた。
 そちらを向くと、階段脇にある花壇のレンガに例の少年が腰掛けていた。

「――っ! あなた……」

 ずっとここで私を待ってたわけ? 私まで殺すつもり?
 私の中で、この少年はすでに彼を殺した犯人だと決まっていた。証拠不十分だけれど、怪しいのには変わりない。
 黒いコートに、ジーンズ。そのジーンズに黒っぽいシミが僅かに付着している。きっと血だ。
 スプリンクラーのように吹き出していたから、少々離れた所に居た私のスカートの裾やブーツにも付いている。

「やだな、そんな恐い顔しないでよ」

 無意識に物凄い顔で睨んでいたのか、少年は困ったように笑った。フッと吐き出した息が白く流れていく。
 今まで心にそんな余裕はなかったから少年の顔をよく見ていなかったのだけれど、こうしてよく見るとこの少年もなかなか整った顔立ちをしていた。
 細くて柔らかそうなクセのついた茶髪、その下の大きな黒い目が長い睫に縁取られている。寒さのせいか、健康そうな頬が赤く染まっていて女の子みたいに可愛らしい印象だ。
 格好が違っていれば女の子に、間違えていたかも知れない。でも、相手は敵だ。

「何の用? 殺人犯さん」

 わざと鼻にかかる態度で少年に言ってやった。しかしヤツはあっさりとそれを流しやがった。

「ちょっとお話しようと思って。何か飲む?」

 にこっと無邪気に無防備に笑い、自販機を指した。
 話……かしてやってもいい。思わぬ証拠をこの機会に引きずり出せればすぐさまこいつは逮捕だ。
 少年は「わ、ココアないのかよ。ショボいな」と言いながらミルクティーのボタンを押し、私に「何がいい?」と訊いてきた。あまりに寒いものだから私は思わず「ブラック」と答えていた。
 甘いものはお菓子だけで十分だ。

「どーぞ」

 短く「ありがと」と言い缶コーヒーを受け取って両手で包み込んだ。
 じんわりと熱が広がって心地いい。少年の方はぷしっと小気味良い音を立ててプルタブを起こしていた。

「オレは、"トオカ"って言うの。"十字架"って書いた後、"字"って言うのを抜いて"十架"ね。お姉さんの名前とかは知ってる。刑事さんが教えてくれたから」

 皮肉な名前よね。と言うほど私は大人気ないわけじゃないけれど、思った。
 十架君は刑事に、自分は無実である事と、自分が目撃した事を正直に報告したらしい。

「シラを切るの? あなたが彼を殺したんでしょ?」

「ううん、殺してない。オレは白」

 真っ黒な服装で随分きっぱりと言ってくれる。中身が熱いのか、彼はミルクティーをちびちびと飲んでいた。その仕草が子供っぽい。

「お姉さんさ、オレが殺してる所とか見たわけじゃないんでしょ? もうちょっとさ、そこんとこ聞かせてよ」

 あの刑事と同じ痛い所を突いてくる。まぁそうか、と何処かで自分でも納得していた。

「……今日、彼とデートしてたの。映画観たり、食事したりね。楽しかったわ。で、これから彼の家に行こうって事になって、近道にあの路地を通って……そうしたら、あそこで彼が殺されてた」

 そう。気付いたら死んでいた。倒れていた彼の首元からぴゅうぴゅうと血飛沫が上がっていた。

「そしたら、あなたがそこに居た」

 なるほどね、と小柄な少年は頷く。あなた、自分が置かれてる状況判ってんの? と訊きたいくらいの落ち着きぶりだ。

「……ホントにあのお兄さんが殺された時の事覚えてないの?」

「わけわかんなくて……本当よ」

「そっか」

 私はここでようやく缶コーヒーを開けて口にした。温度が結構手に移ってしまって微妙にぬるかった。

「――オレが、殺したって思う?」

 何を今さら。

「あなたじゃなくて、誰が殺したっていうのよ」

 あの場所には、私と彼とこの少年しか居なかった。それは覚えている。
 あなた意外に誰がいるって言うのよ。――そう、私は覚えてる。
 むっと粘り気のある血の臭さも、鮮やかな赤色も、刺した時の柔らかい肉の手応えも。

「――――え?」

 そこまで思って、思わず私は自分に問い掛けてしまった。
 あれ? 何で私そんな事知ってるわけ?

 ・・・・・・・・・・・・・・
 刺した時の柔らかい肉の手応えなんて――……。

 口元にあった缶が――正確には私の手が――震えて、カチカチと歯にあたった。
 そして缶は手から滑り落ち、まだたっぷりと残っているブラックコーヒーがコンクリートを黒く染め上げる。

 ビシャ。

 夜の闇。警察署の窓から漏れる灯りと街灯だけが頼りのこの空間で、その黒い液体はつい数時間前に見たものを思い出させた。
 それが流れて私の足元に這うように向かってくる。

「あ……あ……」

 私は黒い液体から逃げるように後ずさった。十架君はそんな私の様子を、あの刑事のように目を細めて見ていた。


『――ねぇ、私のためになら、死んでくれたりするの?』


「いやぁ!」

 パキン。

 何かが弾けたような、そんな音がして。
 全てを、思い出した。

+++


 甘いものは、お菓子だけで十分だ。
 彼は優しくて、誠実で  でも私に対してとても甘かった。
 お金持ちだったから「アレが欲しい」と言えば何でも買ってくれたし、「あそこに行きたい」と言えば、何処へだって連れていってくれた。
 きっと理想の彼だったんだろう。
 けれど私は彼の事が好きなのにも関らず、一方で彼の"甘さ"に少しうんざりしている所もあった。満たされすぎていたから。
 たまには首を横に振ってたしなめてくれたっていいじゃないか。私を少しでも縛ったくれたっていいじゃないか。"拒否"を見せてよ。
 だから私は試した。一晩考えて、「これならダメだって言ってもらえる頼み」を彼の家に向かう途中、訊いてみた。
 今日買ってもらった、ナイフを取り出しながら。

「――ねぇ、私のためになら、死んでくれたりするの?」

 お願いだから、Noと答えて。私をがっかりさせないで。甘くしないで。
 彼は少し驚いた顔をしたけれど、すぐにいつもの柔らかい笑顔を見せて、言う。


「……君が、それを望むなら」


 冗談なら、それでいいと思った。
 笑い飛ばして何もなかった事に出来たのかも知れなかったけど、彼の瞳はいつになく真剣な光を宿していた。

 ――彼は、本気で云っている。

 パキン、と私の中で何かが弾けた。ナイフを握った手が意識とは別の速さで動く。
 そしてあっという間にナイフの切っ先は、彼の喉を刺し抜いていた。
 ズブリ、と嫌な音がした気がする。
 彼は喘ぐように口をぱくぱくさせたけれど、目は優しかった。
 私が物をねだった時に見せる、困ったような笑みをたたえた瞳だ。
 ナイフを引き抜く時、私は思いきり後ずさった。
 ぶしゅう、と傷口から血が勢いよく吹き出す。

  ――ああ、……彼は……私は……――

 突然視界が白くなる。目眩が起きて、一瞬私の身体が傾いた。

「……っ!」

 次に顔を上げた時、目の前には鮮烈な赤が広がっている。
 そして一人の少年がそれをじっと見つめていたのを、やっと思い出した。

+++


 警察署の自動ドアが開いた。
 入ってきたのは黒いコートを着た十代半ばほどの少年で、少しうんざりしたような表情を浮かべている。
 彼は溜め息をつくと、ゴミ箱に空き缶を放った。

「――苦労を掛けたな、十架」

 若い男の声が少年に呼び掛けた。十架と呼ばれたその少年は肩をすくめてみせる。先程女性の取り調べを行っていた刑事だった。

「それで、彼女は?」

「他の刑事さんに任せといた。きっと洗いざらい正直に話してくれるぜ」

 女性に対して話をしていた時と口調が変わっていた。これがこの少年の本来の話し方なのだろう。

「まったくよー。"気配"を感じて行ってみたら、いきなりグサッて殺っちゃって血が飛び散ってやがんの。びっくりしちゃうほどスプラッタだぜ。マジ有り得ねぇっつうの」

「平気か?」

「んなワケねーだろ。胸クソ悪ィ。あんなの平気になってみろ。"ヤツら"の仲間入りだ」

 あからさまに嫌そうに顔をしかめる。刑事はふっと苦笑し、煙草に灯を着けようとした。

「……ここ禁煙コーナー。オレのデリケートな肺にも気を遣ってほしいんですけどー」

「鍛えろ」

「どうやってだよ。無理あるっての」

「毎日一本ずつ吸うんだ。慣れてしまえばこっちのモノだ」

「刑事が未成年にタバコ薦めんな」

 それはさておき、と刑事は結局煙草とライターをポケットにしまった。

「今回もまた厄介なものだったな」

「まーな。自分で恋人を刺しといて、いきなりオレを犯人呼ばわりしやがる。あのお姉さんも、殺されたお兄さんも、大した狂いようだったよ」

 皮張りに似せた黒い長椅子に十架は乱雑に腰を降ろす。

「……その様子だと"視えた"んだな」

「今回のは"甘さ"が狂器だった。あのお姉さんに詳しく聞かせてもらってよ。オレ今日しんどいから」

 本当に疲れ切ったように椅子に身を預ける小柄な少年を見て、刑事は素直に頷いた。

+++


「君の"狂器"は"甘さ"らしい」

 格子の向こうで刑事が言った。凶器? 狂気? よく判らなかったけど私はただ黙って頷いていた。丁寧語じゃないのも気にならなかった。

「――ごくたまに、君のように狂った衝動がきっかけで殺人を犯してしまう人間がいるんだ。心に溜まった泥のような狂った殺人衝動。それを十架は"狂器"と呼んでいる」

 あの少年が刑事の関係者だと知ってもさほど驚かなかった。
 きっと心のどこかで判っていたんだと思うことにした。今はひたすら、どうでもいい。

「十架は君が狂器をを持ち、成った理由を"視た"らしいけれど  君の口から聞かせてもらえないだろうか」

 私は全てを話した。
 "甘さ"に退屈して彼を殺してしまった私も、私の全てを受け入れようとして私に殺された彼も――狂っていたということを。

   そして、ただ私は彼を思って――泣いていた。




 Fin...  





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